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情念と混沌は友 [自分探し]

ミステリアスな私
たまに私のことを「ミステリアスだ」という人がいる。褒め言葉と受け取っているが、実際には困惑しているという意味も含まれているのだろう。
想像はつくと思うが、私は普段、意見を明確に表明するタイプの人間ではない。むしろ黙って観察するタイプだ。話慣れていないので、自分の考えを聞かれても言語化に時間がかかる。もちろん日々色んな言葉を耳にしているから、表面的な会話や借物の論理を口にすることはできるし、ヒラメキを言葉にすることもできるが、そうではない日常的な思考に上手く当てはまる言葉が見つからないことも多い。自分で昔、口にした言葉さえ、ぱっと出てこないことがある。でもイメージは掴めているのだ。自分でもこの状況はミステリアスである。

こうなったのにはいくつか理由がある。私は積極的な性格でもなかったから元々口数が少なかった。ただし、口にしないけど自分の意見は持っているし、持ちたいと思っているし、悪事や崩壊を黙って見過ごすのは嫌いだ。たぶん、この静と動のせめぎ合いが私なのだろう。口にしない言葉はやがて忘れられて情念だけが残る。情念は言葉よりも先に行動に変化する。

感性の本質
もう一つ、私の言葉を失わせている原因は「分からないものに対する姿勢」だろう。
アート系に身を置いていた時間が長い性か、それとも持って生まれた性分なのかはわからないが、私が一番重視しているのは感覚である。いや感性というべきか。またの名を「センス」と言う。センスを「微妙あるいは非言語的事柄に白黒着けさせる能力」と考えている人が多いが、私に言わせるとそれは「センスに依る判断」であってセンスそのものではない。また、瞬間的で直観的な判断力をセンスと考えることについても同様である。私が考えるセンスとは「秩序ある混沌を受け入れる能力」ということになる。例えば、何となく印象に残るとか、何となく一貫性があるとか、法則性は見えるとか、そうしたものだ。単なる混沌と秩序ある混沌の違いについては「複雑系」と呼ばれる科学分野で扱われているのでそちらを調べてもらうとして、ここでは「混沌を受け入れる能力」について話そう。べつに大したことじゃない。誰でも好むと好まざるに関わらずやっていることだ。現実を受け入れること、それだけである。ただし、他人や自分の偏った意見に頼るのではなく「事象そのものを受け入れること」という条件がつく。これは訳が分からなくてもとりあえず受け入れると言うことでもある。さて、できるだろうか?できなくてもやろうとするのが私にとっての感性である。

真実というのは中々姿を現してくれない。ましてやこの情報化社会、情報の洪水の中で本質に論理だけで迫るのは至難の業だ。何が必要な情報かを見分けるには「網羅的」かつ「的確な視点」での情報分析が必要になる。このうち「網羅的」というのがクセモノだ。網羅した情報の中には他人の「恣意的な雑音」が多く含まれる。そう、他人の意見は「雑音」なのだ。ふつうは自分と共鳴した意見は雑音ではなく、その人にとっての「金言」となるのだが、それもで真実や本質とは違う。真実と向き合いたければ、自分ではなく本質と共鳴する意見を見つけなくてはならない。そのためには混沌の中に一度自分の意見も捨てなくてはならない。つまり自分の意見すら雑音扱いするのだ。そして、そんなことを習慣にしているから自分の言葉すら忘れてしまう。

勿論、忘れてオシマイだったら、本質と共鳴する何かを見つけられなかった時に自我崩壊で病院行きになってしまう。だから最後は自分の意見をひろって帰ってくるのだが、この時に少しでも自分の意見が本質に近づいていれば、それがその人の成長になる。
理想的な先生がいれば、その人について行くことで一気に成長できることもあるだろうが、私みたいに天ノ邪鬼な性格の人間は、他人について行くというのがどうも苦手である。だから非効率でもチマチマと混沌へのダイブと這い上がりを繰返しながら成長する。苦しいように思われるかもしれないが時々大きなヒラメキが驚喜を運んでくるからやめられない。

リーダーシップをとることは困難?
まあ、人を導くにはあまり向かない生き方ではある。「オレについてこい」的なリーダーを期待している人は、きっと一緒に混沌にダイブして溺れてしまうことだろう。不慣れなことにつき合ってはいけない。不幸にも私のようなタイプをリーダーに持ってしまったら、道標を立てながら気長について行くことだ。混沌を友とするタイプは道を「線」で示すことはできないが、時々、混沌から姿を現して「点」を示すから、そこに道標を立ててさらに後ろからついてくる人を導く。それと点が示されるまでは、情報に優先順位を付ける等の手助けをすることだ。ただ待っていてはいけない。ダイブしている最中は周りが見えていないことも多いから放っておくと危険だ。良くない方向にリーダーが行かない様に補佐することは必要である。そうそう、道を造ることはあまり気にしなくても良い。道は人が増えるにつれて自然と見えてくるものだ。人を集めるのに「道を示す必要がある」という話もあるが、それは道標があれば何とかなる。(たぶん)

ここでいう道には組織の方向性、ワークフロー、それに論理などが含まれる。「論理がなぜ?」と思われる方も多いだろうが、論理には物亊の見方が付き物だ。視点が変われば論理は変わる。だから論理を重視することは真理を重視することとは違う。大事なのは視点と論点を重視することだ。人にはエゴがあるから、視点や論点よりロジックを重視してもロクなことにはならない。社会的、宗教的な論理がネジ曲がって行くことは歴史が証明している。墨攻の衰退、儒学のねじれ、免罪符...例を挙げれば切りがない。「情念と混沌」を友とするタイプはそうした歪みの影響を受けにくい。

論理を作らなくてはならない人へ
ところで先の、「道を造ることをあまり意識しなくて良い」と「道には論理が含まれる」と言う記述からは、論理的に「論理を作ることをあまり意識しなくて良い」という主張が導かれる。(笑)ただし、論理化を意識しなければならない人々もいる。それはデザイナーや企画系、広報系の人々で、何のことはない私の同類である。これらの人々は情念や混沌を友としながら、そこから切り出した視点やコンセプトを”出来立てホヤホヤ”の時期に他人に伝えなくてはならない。切り出しはヒラメキであって、ロジックではないのだが、提案を受けるのは論理で考える人たちなので、それに合わせる必要がある。

ただし、この手の話題になると、よく「理論武装」という言葉を耳にするが、正直私はこの言葉を使われるのが好きではない。理論武装はディベート(討論)では必須のスキルだし、偏見に対して威力を発揮する。が、感性から論理への翻訳、言換えれば「センスに言葉や学問的視点を与えること」とは別物である。理論武装とは「相手が取りそうな論点を予測し、それが無効であることを論理的に導く」そうした準備をすることだ。やらなければいけないのは「新しい視点の提示」であって相手の否定ではない。組織内部でディベートをできるなら翻訳と理論武装を同時にやってもかまわないが、それでも両者が似て非なるモノであるは理解しておいてほしいものだ。

そういう自分も翻訳を飛ばして理論武装だけしてしまうことがあるので自戒の意味も込めておこう。また、この翻訳作業は相手の立ち位置から新たな視点までの道を示すことが目的で、論理は脇役であることも覚えておこう。

さて、少しは私の中身がわかってもらえただろうか?
それでも私はミステリアス?だとしたらなぜ?(笑)
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